小さな「もったいない」が、部屋の余白を埋めていた
1年ぶりの掃除で見つけた、物の山と先送りしてきた判断
明日(この記事を書いている時点で)、インターネット回線の設備更新工事があります。
もしキャンセルしたら、キャンセル料は7,500円。
そのプレッシャーに押されて、私は約1年ぶりに部屋の掃除を始めました。
普段から少しずつ片づけていれば、これほど慌てる必要はなかったはずです。
しかし、見て見ぬふりをしてきた物を動かしてみると、出てくる、出てくる。
掃除を始めたはずなのに、机の上にも床にもベッドの上にも、たくさんの物の山ができてしまいました。
読んでいない本を捨てられない
私の部屋には、本がたくさんあります。
本を買うのは好きなのですが、最後まで読み切った本はほとんどありません。
初めのさわりの部分を少し読み、あとはパラパラとページをめくった程度。それでも、やはり本は捨てられません。
「いつか読むかもしれない」
「この本の中に、今後必要になる答えが書かれているかもしれない」
そんな気持ちが残っているからです。
本を捨てることは、単に紙の束を処分することではありません。
買ったときに抱いていた期待や、学ぼうとした自分まで否定するような気がしてしまうのです。
もう手に入らない学びの資料
これまで受講してきた講座や、学びに使った資料もたくさんあります。
すでにサイトへアクセスできなくなり、今ではもう手に入らない資料もあります。
これも簡単には捨てられません。
実際にもう一度読み返すかどうかは分からない。
それでも、これまでお金と時間を使って学んできた記録であり、何度も挑戦してきた証しでもあります。
こうした物を目の前にすると、「必要か、不要か」という二択だけでは決められない自分がいます。
スーツケースは巨大な保留箱だった
部屋にある大量の書類には、もう一つ理由があります。
以前、海外旅行で使っていたスーツケースの中に、たくさんの紙の書類を入れていました。
本来は旅行の荷物を運ぶためのスーツケースですが、使わない間に、
「今すぐ必要ではないけれど、捨てられない物」
を入れる保管場所になっていたのです。
ふたを閉めれば、中の書類は見えません。
部屋も、その分だけ片づいたように見えます。
しかし、書類がなくなったわけではありません。ただ、見えない場所へ移して、判断を先送りしていただけでした。
昨年の秋、北海道へ行くことになり、そのスーツケースを久しぶりに使いました。
旅行に使うため、中に入っていた書類を全部部屋へ出しました。
北海道旅行は終わりましたが、出した書類はそのまま残りました。
考えてみれば、スーツケースは長い間、私の「巨大な保留箱」になっていたのです。
片づけたのではなく、見えない場所へ移していただけだった。
今日一日で増えた物ではありません。
何年もかけて先送りしてきた判断と、今まとめて向き合っているのです。
小さな物ほど、いつの間にか増えていく
本や資料だけではありません。
長年の出張で持ち帰ったホテルのスポンジやボディタオル、歯ブラシ、お茶やコーヒー。
マスク、つまようじ、割り箸、コンビニ袋。
醤油、ケチャップ、ソース、からしなどの小袋も、たくさん出てきました。
そして、なぜか飴もたくさんあります。
一つひとつは小さな物です。
「これくらいなら取っておいても邪魔にならない」
「まだ使えるのに捨てるのはもったいない」
そう考えて残してきたのでしょう。
ところが、その小さな判断が何年も積み重なり、気がつけば部屋の余白を少しずつ埋めていました。
人生の余白を奪うのは、大きな物だけではありません。
先送りしてきた小さな判断の積み重ねが、いつの間にか大きな山になっていたのです。
サービスマンだから捨てられない物
インシュロックやビス、ボルト、ナットなども、たくさん出てきました。
クリーン機器の据え付けやメンテナンスをしてきたサービスマンの私にとって、こうした物は単なる不用品ではありません。
ちょうどよいサイズのビスやインシュロックが一本あれば、現場で助かることがあります。
「いつか使える」
その判断は、必ずしも間違いではありません。
ただし、何がどれだけあり、どこに置いてあるのか分からなければ、必要なときに見つけられません。
見つからなければ、結局また買うことになります。
物を大切にしているつもりが、かえって物もお金も無駄にしていたのかもしれません。
持っているのに、また買ってしまう
乾電池やマジック、ボールペンも、あちこちから何本も出てきました。
必要になったときに見つからず、そのたびに新しい物を買っていたのでしょう。
「まだ使えるから残す」
けれど、どこにあるのか分からない。
そして必要になったとき、また同じ物を買ってしまう。
物は、ただ持っているだけでは役に立ちません。
何を持っているのかを把握でき、必要なときに取り出せて、実際に使って初めて「持っている」と言えるのかもしれません。
「まだ使える」と「実際に使う」は、同じではない。
そんな当たり前のことに、今さらながら気づきました。
山の中にも、自分なりの秩序がある
実は、会社の私の机も、書類や物が山になっています。
ほかの人から見れば、ただ散らかっているように見えるかもしれません。
けれど、不思議なことに、必要な物がどの山のどのあたりにあるのか、大体分かります。
「あの資料は、右側の山の真ん中あたりにある」
そんな感覚で探してみると、実際に見つかることがあります。
整然と並んでいるわけではありません。しかし、私の頭の中では、それなりの位置関係ができているのでしょう。
これは、子どものころから変わっていないのかもしれません。
子どものころ、机の上が山になっているのを見かねて、おふくろが片づけてくれることがありました。
机の上はきれいになります。
ところが、必要な物を探そうとすると、どこへ置かれたのか分からなくなっていました。
おふくろは、よかれと思って片づけてくれたのでしょう。
しかし、私にとっては、散らかった机の上にも自分なりの秩序があったのです。
きれいに見えることと、使いやすいことは、必ずしも同じではありません。
ただ、その「自分には分かる」という状態にも限界があります。
山が増えすぎれば、どの山だったのか分からなくなる。
下のほうにある物は取り出せなくなる。
同じ物を持っていることを忘れ、また買ってしまう。
今回の掃除で目指すのは、モデルルームのような部屋ではありません。
何もかも捨て、見た目だけをきれいにすることでもありません。
自分なりの秩序を残しながら、必要な物を無理なく取り出せる状態にする。
それくらいが、私にはちょうどよいのかもしれません。
「もったいない」の奥にあるもの
なぜ、これほど多くの物を残してきたのでしょう。
私は物そのものではなく、その物が持っている「可能性」を捨てられなかったのかもしれません。
本なら、いつか読む可能性。
学びの資料なら、いつか仕事や発信に生かせる可能性。
ホテルのアメニティや調味料なら、いつか使って節約できる可能性。
ビスやボルトなら、いつか修理で役立つ可能性。
どれも、「未来の自分を助けてくれるかもしれない物」です。
だから捨てると、損をするように感じます。
未来の安心まで失ってしまうような気がするのです。
けれど、その「いつか」は、なかなかやってきません。
物は残ったまま、今の自分が使える場所だけが狭くなっていきました。
薬だけは「もったいない」で残さない
今回、特に気になったのが、病院でもらった薬です。
以前、体調を崩したときに処方された薬が、使い切らないままたくさん残っていました。
何のためにもらったのか、いつ処方されたのか、すぐには思い出せないものもあります。
「また同じ症状が出たときに使えるかもしれない」
「せっかくもらったのに、捨てるのはもったいない」
そう思って残していました。
しかし、薬だけは、ほかの物と同じように考えてはいけません。
古い処方薬を自己判断で再使用するのは避け、薬の名前や期限、保管状態を確認する必要があります。
何の薬か分からないものや不要になった薬については、薬局や医療機関に処分方法を相談したほうがいいと聞いたことがあります。
本や資料、生活用品なら、「今は決められない物」として保留箱に入れておくこともできます。
しかし、薬は早めに整理したほうがいい。
「もったいない」より、安全を優先しなければならない物もある。
物の性質に応じて、残し方や手放し方を変えることも大切なのだと気づきました。
持っていることにも費用がかかる
物を捨てるとき、私たちは「いくらで買ったか」を考えます。
しかし、持ち続けることにも、見えない費用がかかっています。
置いておく場所。
必要な物を探す時間。
掃除や管理にかかる手間。
そして、片づいていない部屋を見るたびに感じる小さなストレス。
新たにお金を払っていなくても、自分の時間と心の余白を使っているのです。
だからといって、何でも捨てればいいとは思いません。
本当に大切な本もあります。
二度と手に入らない資料もあります。
これまで働き、学び、挑戦してきた時間を思い出させてくれる物もあります。
大切なのは、ただ物を減らすことではなく、
「大切だから残す」のか、
「判断できないから置いている」のか。
その違いを、自分に問いかけることなのかもしれません。
分類したのに、部屋はまだ山だらけ
とりあえず、出てきた物を種類ごとに分類しました。
片づけは大体終わりましたが、机の上や部屋の中には、分類された物の山が残っています。
見た目だけなら、掃除を始める前より散らかっているようにも見えます。
けれど、何も進んでいないわけではありません。
掃除を始める前は、何がどこに、どれだけあるのかさえ分かりませんでした。
今は少なくとも、それぞれの山の正体が分かります。
正体の分からない一つの大きな山が、判断できる小さな山に変わった。
これは、片づけに失敗した姿ではなく、片づけの途中なのです。
人生も同じかもしれません。
問題と向き合い始めると、一時的に以前より混乱したように感じることがあります。
抱えているものがはっきり見え、それまで気づかなかった問題まで表に出てくるからです。
しかし、悪化したのではありません。
見えなかったものが、見えるようになったのです。
最後に残った、ベッドの上の山
そして最後に残ったのが、ベッドの上に置かれた物の山です。
部屋は大体片づきました。
今夜は、とりあえず寝る場所を確保しなければなりません。
「寝床だけ空けて、残った物をまたベッドに戻し、布団をかぶせてしまえばいいか」
そんな考えも浮かびました。
けれど、それではスーツケースの中へ書類を入れたときと同じです。
片づけたのではなく、見えなくして、判断をもう一度先送りするだけです。
だからといって、今夜すべてを処分する必要もありません。
書類、生活用品、保留する物などに分けて、何が入っているか分かる状態にする。
そして、ベッドだけは自分のために空ける。
物のために、自分が眠る場所を譲る必要はない。
今日、全部を終わらせなくてもいいのです。
人生後半の片づけとは
人生の前半は、知識や経験、そして物を増やしていく時期だったのかもしれません。
人生後半は、集めてきたものの中から、本当に大切なものを選び直す時期でもあります。
片づけとは、何もかも捨てることではありません。
過去を否定することでもありません。
片づけとは、持っている物をもう一度使える状態に戻し、これからの自分が心地よく生きられる場所を取り戻すこと。
もったいないから何でも残すのではなく、使い切れる量を大切に持つ。
大切な物は、自分の意思で残す。
そして、役目を終えた物には感謝して手放す。
部屋には、まだいくつかの山が残っています。
それでも、昨日までとは違います。
私はようやく、その山の正体を知り、一つひとつと向き合い始めました。
7,500円のキャンセル料に追い立てられて始めた掃除でしたが、部屋だけでなく、これから何を大切にして生きていくのかまで考える時間になりました。
掃除も人生も、まだ途中です。
でも、途中だからこそ見つけられる気づきがある。
今夜はまず、自分が安心して眠れる場所を取り戻すことにします。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
インターネットを速くするための工事がきっかけで始めた、久しぶりの大掃除。
でも、片付けながら見えてきたのは、部屋の中だけではなく、自分の中に溜め込んできた「もったいない」という気持ちでした。
人生後半になると、何気ない日常の中にも、まだまだ新しい気づきがあります。
このSubstackでは、66歳の私が日々の暮らしやAIとの対話、発信への挑戦の中で感じたことを、等身大の言葉で綴っています。
「人生、まだまだこれからだ」
そう思える時間を一緒に増やしていけたら嬉しいです。
よかったら、無料登録して次の記事も読んでください。



へろっさん、あ〜😮💨めっちゃ分かります。これでも捨てる方なんですが、捨てるより増える方が多いのかなぁ…本も読んでないものばかり。でも捨てられない💦
私もへろっさんみたいに、お客さんでも呼んで、強制片付けしよう🤣
おはようございます。記事を読みながらお部屋の光景がありありと浮かんできました。🤭なんか、私の部屋のようで(笑)
山のように積み上げているものの方が探し物がしやすくて、きちんと片付けるとわからなくなったりも,同じです!
使っていない書類や旅行のアメニティーや、昔もらった薬とか、、なかなか捨てられなくて溜まってしまうのも。全てほんとによくわかります。😊
今回片付けされてできた隙間には新しい風が吹いてきますね。楽しみですね。🎵